旧制福岡高等学校

校章 所在地 福岡県福岡市
設置 大正10年
後身 九州大学教養部
現在 九州大学六本松キャンパス(地図

現況


現在の九州大学六本松キャンパス正門と背後の本館。旧制福岡高等学校の正門も同じ位置に在った。校章は「福」を意味する9個の「フ」の中央に太宰府の飛梅を図案化したもの。福高の代名詞として「青陵」が用いられ、同窓会は青陵会と称している。代表寮歌「銀箭清く」(昭和5年制作)に「今青陵に歓宴して 若き生命を讃うるに」と謳われ、代表寮歌「人生旅路遠けれど」(昭和6年制作)には「希望に急ぐ青陵の 若き行者のあゝ血は踊る」と謳われている。



現在の六本松キャンパス案内図。キャンパス内での建物用地・運動場・プールの配置は旧制時代から変わっていない。運動場の南側(写真では運動場の上方)にあるテニスコートの位置に、かつて福高寄宿舎である学而寮が建っていた。寮名は論語の「学而時習之。不亦説乎」に由来する。なお学而寮は昭和29年に樋井川を隔てた対岸の田島地区に移築され、九大田島寮と改称された。

青陵の泉


昭和43年に設けられた青陵の泉と、「銀蛇の舞」を舞う高ゲタを履いた福高生記念像。台座に代表寮歌「あゝ玄海」(大正11年制作)の冒頭の一節「あゝ玄海の浪の華 銀蛇の舞に似たる哉」が刻まれている。



背面の由来銘板に「Sprich, woher die süße Quelle Die verborgnen Wasser führt? - E. Mörike -」「旧制福岡高等学校校歴.大正11年3月創立.昭和25年3月その歴史を閉ず.同時に新制九州大学教養部となり今日にいたる」と記されている。

福高記念碑


創立80周年を記念して平成14年に建てられた福高跡碑。右側面に河合正武氏(第1回文甲卒)作の「夕日さす あゝ玄海の 像のかげ 何を語るや 主なき庭に」が刻まれている。

亭々舎


大正12年に建てられた学生集会所・亭々舎。「亭々」は樹木が高くそびえ立つ様子を意味し、秋吉音治初代校長により生徒の大きな成長を願って命名された。旧制時代以来の数少ない遺構の1つで、現在も教官や九大生が会議やコンパを開く際に利用されている。



園田久物理学教授の揮毫による玄関の扁額。

秋吉文庫之碑


昭和14年に建てられた秋吉文庫之碑。秋吉校長は在任中の昭和12年に急逝し、福高運動場にて校葬が執り行なわれた。由来文に「初め銅像建設の企ありしが時有史以来の事變に際會し資材統制の重大國策に従ふべきを慮り更に熟議の結果圖書を購入し記念文庫を設くるに至れり」(原文は片仮名)とある。

卒業記念寄贈
 

図書館前の日時計台。銘板に「記念 第十三、四、五回卒業生一同 昭和十四年三月」とある。



昭和15年に第16回卒業生により建てられた、「彌榮 皇紀二千六百年」と刻まれた校旗掲揚台。

図書館


福高図書室の後身である九大附属図書館六本松分館。九大コレクション福高蔵書印の印影が公開されている。また福高玉泉館(昭和5年に玉泉大梁歴史学教授が開設)所蔵の1万点に上る考古学資料と古文書は、昭和62年の玉泉館解体に伴い現在同図書館内に移設・収蔵されている。

外国人教師宿舎


昭和2年に市内西新地区に建てられた福高外国人教師宿舎3号棟。新制移行後は九大教官宿舎として使用され、平成13年に九大西新プラザの新設に伴い産学交流棟に改装された。設計者は不明だが、同時期に九州帝大の建物を多く手掛けた倉田謙文部技官(九州帝大建築課長)との説が有力である。

名残


六本松2号館玄関に掲げられている「化学教室」の表札。2号館(化学)・3号館(物理)・4号館(生物)はそれぞれ福高化学教室・物理教室・博物教室跡に建てられている。


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六本松の講義時間割表。九大の学部入学者は1・2年次は六本松キャンパスで全学共通教育を履修し、学部学科ごとに文科は1〜13組に、理科は1〜38組にクラス分けされる。履修登録や試験の際は「文科1年12組」(LI-12)「理科2年34組」(SII-34)のように記す。ほとんどの九大生は特に意識しないまま六本松を終えていくと思われるが、実はこのようなシステムに現在も旧制高校の名残が留められている。


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