旧制第六高等学校
校章 |
所在地 |
岡山県岡山市 |
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設置 |
明治33年 |
後身 |
岡山大学法文学部・理学部 |
現在 |
県立岡山朝日高校(地図) |
現況
現在の県立岡山朝日高校正門。旧制第六高等学校の正門柱がそのまま使用されている。六高は昭和20年に戦災に遭って校舎の大半を焼失し、戦後に旧陸軍中部第48部隊跡(現在の岡山大学津島キャンパス)に移転して新制岡山大学法文学部・理学部となった。跡地には昭和25年に岡山朝日高が移転し現在に至る。校章は「大日本」の3字を重ねたともいわれる。
旧制時代以来使用されている外周の石積。総延長は1,032mに及ぶ。正門と石積は平成23年に文化庁の有形文化財建造物として登録された。
道標
創立85周年を記念して昭和60年に正門へ至る公道沿いに設置された道標。六高校章と「第六等學校趾」の案内文が刻まれている。
書庫
明治35年に建てられた東書庫(右側)と、昭和5年に建てられた西書庫(左側)。現在は岡山朝日高の書庫兼倉庫として使用されている。
平成23年に文化庁の有形文化財建造物として登録された。
柔道場
大正8年に六高柔道場として建てられ、現在は岡山朝日高の柔道場として使用されている。平成23年に文化庁の有形文化財建造物として登録された。
昭和16年に柔道場前に建てられた「松尾先生追憶之碑」。松尾哲太郎部長率いる六高柔道部は全国高専柔道大会で大正11年から昭和4年まで8連覇を達成するなど強豪校として知られた。
プール
旧六高プール。老朽化により水が溜まらなくなった為に現在は使用されていない。
酒井校長像
昭和8年に建てられた酒井佐保初代校長胸像。背面の由来銘板に「酒井佐保先生は明治三十三年本校創立當初の校長と為す卒業生其徳を追慕して胸像を鋳造せんことを發起し職員生徒も亦翕然之を賛助し温容を永く校庭に仰ぐことと為れり」(原文は片仮名)とある。建立時の胸像は戦時供出され、昭和24年に備前焼で再制作された。
六稜碑
創立60周年を記念して昭和35年に建てられた六稜碑。由来碑に「その六高また六稜と云ふは異称なり伝統正に五十年万余の人材を輩出す偶昭和廿五年岡山大学に統合し光輝ある六高ここに跡を絶つ今卒業生相謀りその址にこの碑を建て母校追慕の象徴となす」(原文は片仮名)とある。六高寄宿舎は六稜寮と命名された。
六の碑
昭和45年に建てられた六高記念碑。側面の由来文に「今創立七十周年に當り卒業生相図り母校に対する感恩の心を顕現するため此処に記念の碑を建つるものなり」とある。
郭沫若先生辞碑
郭沫若氏は大正3年に中国から日本に留学し、六高を経て九州帝大医学部を卒業した。戦後は政務院副総理や科学院院長等を歴任し、文学者や歴史学者としても名を馳せた。この碑は昭和58年に建てられ、氏が昭和30年に当地を訪れた際に詠んだ詩が刻まれている。背面の由来文に「夢多き青春の三星霜 日本操山下六稜に学ぶ 第二の故郷として生涯懐かしむ」とある。
記念像
創立90周年を記念して平成7年に建てられた六高生群像。台座に代表寮歌「北進歌」(昭和3年制作)の冒頭の一節「操陵のもと春逝かば」が刻まれている。
創立100周年を記念して平成12年に岡山駅前に建てられた、高ゲタ黒マントの六高生記念像。台座に「青春感謝」と刻まれ、背面の由来文に「三年間の六稜生活は 弊衣破帽 文武両道に励み 時に街頭に出て放歌高吟することもあったが 『六高マン』の愛称で温かく見守られた」とある。右側面には「北進歌」の一節「胸に無限の覇気あらば 守れ不屈の意気の香を」が刻まれている。
運動部記念碑
昭和45年に対岸に岡山城を望む旭川のほとりに建てられた漕艇部記念碑。背面の由来文に「烏城影を涵し古樹緑を湛える旭水の畔、かつてこの清流に軽舸を駆り精進を重ねた若き春秋を想い、艇友四六七ここに碑を建て過ぎし日の忍苦と榮光を永久に伝う」とある。
創部80周年を記念して昭和63年に六高操弓会により建てられた弓道部記念碑。代表寮歌「若紫に夜は明けて」(明治43年制作)の一節「昔男児の弾きたらむ 真弓の弦の響あり」が刻まれ、由来文に「我等が日夜愛誦せし寮歌の一節を思い出深き栴檀樹下に刻み部員の血と汗と涙もて綴られし輝ける歴史を偲び伝統を称えてこれを後世に伝える」とある。
植樹記念碑
藤澤平太郎君記念樹。背面の由来文に「昭和七年三月第六等學校卒業 昭和十一年三月東京帝國大學卒業 満洲國外務局ニ奉職 昭和十二年七月二十九日通州ニテ殉職 六華會有志建之」とある。
創立90周年記念祭に際して平成2年に植えられた、昭和15年卒業生の卒業50周年記念樹。
六高記念館
創立80周年を記念して昭和55年に建てられた六高記念館。由来文に「嗚呼 天下に雄飛せる雲の如き人材を輩出せし懐かしの学舎 今や此の地になく 三寮の灯もまた再び見ることなし (中略)庶幾くば 後世教育史跡として保存され 六高の美風と師友の偉大なる足跡の 永遠に顕彰されんことを」とある。
記念館前の六高菊桜。岡大構内に植樹された六高菊桜の由来文に「中世この名花も消失したとされていたところ昭和初期旧第六等学校大渡忠太郎教授によって備前に伝わっていたものが見つけられ、三好学博士により菊桜であると確認された。(別名六菊桜とも言う)母樹は旧第六等学校の武道場の横にあって春には雅な花を開いていたが、昭和20年の空襲により烏有に帰した」とある。
黒正校長像
昭和36年に岡大中央図書館前に建てられた黒正巖第9代校長胸像。背面の由来文に「黒正巖先生は岡山大学創設の功労者である 先生は昭和十九年六校長となり戦時下の青年教育と戰火に消失した校舎の復興に盡されたが(中略)仍って岡大教官六卒業生並びに先生の知友有志等は十三回忌を期し相謀って先生の像を建てその人物と功績を頌することになった」(原文は片仮名)とある。
おまけ
運動場の北西隅より操山を望む。六高は操山の西麓に位置した事から、「六稜」と共に「操陵」も代名詞として用いられた。代表寮歌「新潮走る」(大正2年制作)に「操山の下草を藉き 明けゆく空を眺むれば」と謳われ、「若紫に夜は明けて」には「操の山の尊き松 あした金風吹きなれば」と謳われている。
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