旧制弘前高等学校
現況
現在の弘前大学文京町キャンパス正門。旧制弘前高等学校の正門よりやや北寄りに設置されている。校章は荘子逍遥遊篇に由来する図南の大鵬を図案化したもので、校歌(大正10年制作)の冒頭に「虚空に羽ばたき南を図る 大鵬われらの徽章とかざす」と謳われている。弘高寄宿舎は秋田實初代校長により北溟寮と命名された。なお現在の弘大北溟寮は市内緑ヶ丘地区に位置しており、寮章として弘高の大鵬を継承している。
現在の文京町キャンパス案内図。弘高の本来の敷地は現キャンパスの北側(図の下側)で、南側の敷地は旧陸軍第8師団司令部跡地。
外国人教師宿舎
大正14年に市内富田地区に建てられた弘高外国人教師宿舎東棟。設計者は堀江佐吉門下の川元重次郎氏。新制移行後は弘大職員宿舎として使用され、平成16年に弘大構内に移築された。資料館を経て平成28年より弘大カフェとして新装開館し、一般公開されている。
平成17年に文化庁の有形文化財建造物として登録された。
遺構
旧本館小使室跡の井戸。平成3年に設置された由来板に「この井戸は旧官立弘前高等学校にあったもので、新制大学となった後も、文理学部、人文学部の飲用水として愛用されておりました」とある。
中山文雄第5代校長時代に防火用水を兼ねて本館中庭に設けられた心字池。人文社会科学部棟の中庭に往時の姿のまま現存している。
記念碑
昭和6年に建てられた創立10周年記念碑。「為記念植樹 聊表銜環情 拾年勤續者建之」と刻まれている。
昭和35年に建てられた創立40周年記念碑。「虚空に羽ばたき 南を圖る」と刻まれている。
昭和37年に弘高柔道部鵬志会により建てられた永澤誠蔵先生頌徳碑。永澤先生は大正14年に柔道担当教官として赴任した。由来文に「この碑は永澤誠蔵先生の功績と徳とを顕彰するために 先生の門下と先生を敬慕する人々の賛同を得て建立されたものであります」と記されている。
創立65周年を記念して昭和60年に市民中央広場に建てられた、學都弘前之碑。背面の由来文に「俊秀全国より集り破帽に大鵬を徽章とかざす ともに勉励し心を練りて青春有為の時を刻みぬ 昭和二十五年三月閉校に至るまで これに学びし者 四千八百有余人なりとす」とある。
青春之像
創立70周年を記念して平成元年に建てられた、高ゲタ黒マントの弘高生青春之像。側面の由来文に「我等若き日に官立弘前高等学校に遊べるは如何なる星の下なりしや (中略)彫刻家高橋剛先生に嘱し故旧忘れ難き我等の回顧を不朽ならしめんと欲す」とある。
在校生名簿
平成12年にみちのく銀行より寄贈された「旧制弘高在校生名簿」。由来文に「このまなびやで学んで青春を送った旧制高校生全員の生徒名」とある。昭和2年に旧制青森中から弘高7期生として文甲に入学した津島修治(太宰治)の名も刻まれている。
資料館
平成24年に開館した弘大資料館。一般公開されており、弘高校旗や本館上棟時の棟札、秋田校長の着用した帽子等が展示されている。
文学碑
弘大創立60周年を記念して平成21年に建てられた太宰治文学碑(左)と、創立70周年を記念して令和元年に建てられた太宰治のレリーフ(右)。各々に代表作「津軽」と「他人に語る」(後に「『晩年』に就いて」と改題)より選んだ一節が刻まれている。
おまけ
昭和55年に城北公園交通広場に設置され、平成17年に追手門広場に移設された旧弘高講堂の1/10模型。旧講堂は大正12年に建てられ、昭和47年に解体された。
平成11年に建てられた弘大創立50周年記念会館。正面観は旧弘高講堂を模して設計されている。
大正10年に当時の富田新町に建てられ、平成18年に市内御幸町地区に移築された旧藤田家住宅。太宰治は北溟寮に入らずこの2階に下宿して弘高に3年間通学した。現在は「太宰治まなびの家」として一般公開され、弘高に関する資料も展示されている。
下乗橋より文化8年(1811年)に建てられた弘前城天守閣を望む。昭和12年に国の重要文化財に指定された。鷹丘城の別称で知られ、代表寮歌「都も遠し」(大正12年制作)に「歌うや鷹丘の城 舞えや大鵬みちのおく」と謳われ、代表寮歌「幽溟深き」(昭和13年制作)には「古城のちまた夜は闌けて 弦月淡き寮の窓」と謳われている。
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