旧制広島高等学校

校章 所在地 広島県広島市
設置 大正12年
後身 広島大学教養部
現在 広島大学附属小・中学校・高校(地図

現況


現在の広大附属校正門。旧制広島高等学校後身の新制広島大学教養部は暫くこの地に在ったが、昭和36年に市内東千田地区に統合移転した。跡地には同年に附属中・高、昭和39年に附属小が移転し現在に至る。校章は三篠川に由来する3枚の笹の葉を図案化したもので、代表寮歌「銀燭揺らぐ」(大正14年制作)に「三篠のデルタ悠久の 若き男の子に光あり」と謳われている。なおこの正門柱の一部は広高当時の遺構。

旧講堂


昭和2年に建てられた旧広高講堂。現在は附属校に移管され同校講堂として諸行事に使用されている。



平成6年に広島市の指定被爆建物、平成10年に文化庁の有形文化財建造物に各々登録された。

寮歌碑


創立40周年を記念して昭和38年に建てられた、「銀燭揺らぐ」の記念歌碑。背面の由来文に「思えば茫々たる歴史の一齣に己がいのちの限りをつくして悔いなき三年間をこの地に生きやがて天翔る夢を抱いてこの地を去っていった同窓の友その数四千有余(中略)されば懐旧の情を愛誦の歌に托してこれを石に刻み 母校発祥の地を卜して記念の碑を建てるゆえんである」と刻まれている。



かつて講堂外壁に掲げられていた広高校章と、「広島等学校記念之地」の揮毫が刻まれた記念碑。広高校地は皆実原頭と呼ばれた。遠征歌「征旅遠く」(大正14年制作)に「皆実にこもる同胞の 玉蟾仰ぐ眼にも」と謳われ、讃想歌「黄昏る想深けれど」(昭和2年制作)には「夜来の花も咲くという 皆実ヶ原に霧裂けて」と謳われている。

広高記念碑


創立70周年を記念して平成5年に建てられた広高跡碑。広高寄宿舎は皆実の地名から連想される禅語の「薫風自南来 殿閣生微涼」より薫風寮と命名された。

原爆被害説明板


広島市により平成5年に設置された原爆被害説明板。他に市内44ヶ所に設置されている。説明文に「原子爆弾の強烈な爆風によって木造の校舎、寄宿舎などは全半壊の被害を受けました。鉄筋コンクリート造の講堂は、木造校舎に挟まれた形で建っていたこともあって、大きな被害は免れました」とある。

広高の森


昭和48年に広島城址に隣接する中央公園内に設置された広高の森。背面の由来文に「われわれ同窓の者四千八百余名はひろく市民の暖かい愛情に包まれて学園生活を送ることができた かつて享受したその恩顧にむくいるためここに学校創立五十年を記念し感謝の心をこめてこの森を贈るものである」と刻まれている。



昭和48年に設置された、大谷繞石英文学教授作の「枝下ろされし 濠端の樹も 東風そめし」の記念句碑。



昭和48年に設置された、北島葭江国文学教授作の「おさふれば はねむとすらむ 若竹の 眞日の大空 ひたさしのぼる」の記念歌碑。



昭和54年に設置された、鳴沢花軒(寡愆)英文学教授作の「美しき われ等が地球 冬日和」の記念句碑。



昭和54年に設置された、中島光風国文学教授作の「出で征きし 教へ子どもの 誰彼れが 心に乗りて 朝な夕なに」の記念歌碑。



平成15年に広高の森に植えられた創立80周年記念樹。



創立85周年を記念して平成20年に広高の森に設置されたベンチ2基。

おまけ


最寄駅の広島電鉄宇品線広大附属学校前駅。昭和10年に高等学校前駅として開業し、戦後に皆実分校前駅、広大教養部前駅、更に昭和36年に広大附属高校駅、昭和39年に広大附属学校前駅と順次改称されて現在に至る。



天正17年(1589年)に毛利輝元公によって築城が開始された広島城。昭和20年の原爆投下により旧天守閣は崩壊し、昭和33年に復元整備された。鯉城の別称で知られ、讃酒歌「紫淡く水むせぶ」(大正14年制作)に「逍遥う原に鯉の城 泣けよツライン花薫る」と謳われ、「銀燭揺らぐ」には「鯉城の夕べ錦繍の 影清流に映ゆる時」と謳われている。


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