旧制京城帝国大学予科

校章 所在地 ソウル特別市東大門区
設置 大正13年
後身 廃校
現在 美宙商店街・美宙団地・東大門税務署・東大門警察署

現況


旧制京城帝国大学予科正門跡推定地に建つ美宙商店街。旧敷地に沿って走る大通りは当時の春川街道で、現在は忘憂路と改称されている。城大予科は朝鮮総督府所管として設置され、当時の住所表記で京城府東郊の高陽郡崇仁面清凉里が校地に定められた。修業年限は開校当初2年、のち昭和9年に3年に延長された。校章は欅を図案化したもので、校歌「紺碧遥かに」(大正13年制作)の一節にも「欅の三つ葉の大旆かざし」と謳われている。



城大予科寄宿舎の進修寮跡地に建つ美宙団地5号棟。寮名は易経の「子曰君子進徳修業」に由来する。なお旧運動場跡地には東大門税務署が、旧教官宿舎跡地には東大門警察署が各々建てられている。



現在の城大予科旧敷地周辺図。写真中央に美宙団地、右方に東大門税務署、上方に東大門警察署、下方に国鉄と地下鉄の清凉里駅が各々示されている。

旧本館


大正11年に建てられた旧城大予科本館。廃校後は東山病院として使用され、平成19年1月現在大規模な改修工事が施されている。なお工事終了後の使途については詳細不明。

清凉里駅


明治44年に開業した国鉄清凉里駅。「朝鮮鐡道旅行便覧」(大正13年刊行)に「東大門を左に見て楊柳の並木に名も優しい清凉里驛、驛前に京城大學豫科の巍然たる三層の赤煉瓦建が一壯觀を添へる」「工事費六十五萬圓、殆ど工を竣へて、十三年五月より、文理二科百六十名の生徒を容れて教授を開始した」とある。



かつての市電清凉里駅直下に位置する地下鉄1号線清凉里駅。明治22年に西大門と清凉里を結ぶ路面電車が開通し、往時の城大予科生に京城府中心街へ至る最寄駅として利用された。なお市電は昭和43年に廃止され、その路線は昭和49年に開通した地下鉄1号線に継承されている。

京城帝大法文学部


ソウル特別市鐘路区大学路に在る城大法文学部正門跡。設立準備段階では「朝鮮帝国大学」が仮称として用いられたが、「朝鮮帝国」の表記が内外に誤解を与えるとして元老が難色を示し、最終的に「京城帝国大学」が正式名称となった。戦後に敷地と建物を継承した国立ソウル大学校は医科大学を除いて昭和50年に江南の冠岳キャンパスに移転し、跡地にマロニエ公園が造成された。なお公園内のマロニエの木々は旧制時代に城大構内に植えられたもの。



昭和6年に建てられた旧城大本館。戦後はソウル大本館として継承され、大学移転後は韓国文化芸術振興院庁舎として使用されている。

京城帝大医学部


大正15年に建てられた旧城大医学部本館。現在はソウル大医科大学本館として使用されている。



大韓帝国時代の明治41年に建てられた旧大韓医院本館。朝鮮総督府医院を経て大正15年に城大医学部附属病院となり、戦後はソウル大医科大学附属病院として継承された。新病棟の完成に伴って現在はソウル大医学記念館や放送通信大学本館として使用されている。

おまけ


明治45年に建てられた旧朝鮮銀行本店。戦後は韓国銀行本店として継承され、平成13年に韓銀貨幣博物館に改装されて内部が一般公開されている。設計者は日本銀行本店や東京駅を手掛けた辰野金吾氏。当時の鮮銀前広場は周囲に京城郵便局や京城三越が建ち並ぶ市内随一の繁華街で、しばしば城大予科生の街頭ストームの舞台となった。


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