旧制水戸高等学校

校章 所在地 茨城県水戸市
設置 大正9年
後身 茨城大学文理学部
現在 市立第一中学校・水高スクエア(地図

現況(水戸一中)


現在の水戸一中正門。旧制水戸高等学校設立に当り茨城出身の実業家・内田信也氏より当時としては巨額の100万円の篤志が寄せられ、2万6千坪の敷地が整えられた。また水高は明治5年に廃校となった旧水戸藩校弘道館の蔵書も引き継いだが、昭和20年の水戸空襲で焼失した。戦災を受けて水高は昭和23年に旧陸軍東部第37部隊跡(現在の茨城大学水戸キャンパス)に移転し、翌年に新制茨城大学文理学部となった。昭和25年に跡地の南半分に水戸一中が移転し現在に至る。

記念碑


開校60周年を記念して昭和54年に建てられた記念碑。長谷川四郎英文学教授による「嗚呼水健児なほ勇健」の揮毫が刻まれている。



由来文に「全国より迎え来り 送り去りし若人およそ六千 茫々いま六十星霜 昔日の学舎 すでになしといえども 佇めばその偉容 今 生々として彷彿す」とある。平成元年に水戸一中校舎内に「水高資料展示室」が開設された。



開校50周年を記念して昭和44年に建てられた、「旧制水戸高等学校グランド跡」と刻まれた記念碑。背面の由来文に「大正九年夏 水戸高等学校誕生のとき ここはぼうぼうたる草原であった 学生たちはみずから鍬をふるって 九万平方メートルに及ぶ土地を切り拓き 当時東洋一のグランドを創りあげた」とある。

現況(水高スクエア)


昭和40年に水高旧敷地の北半分に国立水戸病院が設置された。同病院は平成16年に茨城町に移転し、跡地は再開発され平成20年に医療福祉複合施設「水高スクエア」が開所した。

記念碑


昭和63年に市教委により建てられた水高跡碑。側面の由来文に「旧制水戸高等学校は 大正九年九月この地に開校 八五八○○平方米の敷地に 風格ある校舎 講堂と七棟の寄宿舎(暁鐘寮)が並び 生徒らの手で造りあげられたグラウンドは当時東洋一とうたわれた」とある。寮名は徳川斉昭第9代水戸藩主の和歌「物学ぶ 人の為にと さやかにも 暁告る 鐘のこゑかな」に由来し、寮訓として「真則勇」が掲げられた。



開校90周年を記念して平成21年に建てられた水高記念碑。「旧制水戸高等学校 1920〜1950」とあり、背面には「水高不滅」と刻まれている。

暁鐘


暁鐘寮では自戒と警世の意義を込めて寮生が毎朝交替で鐘を撞く伝統があり、昭和10年に旧暁鐘楼が建てられた。この鐘は戦時供出されたが、昭和49年に再鋳されて県立歴史館に展示された。昭和54年に開校60周年を記念して偕楽園内に旧観を模した新暁鐘楼が建てられ、鐘は歴史館から移設された。なお偕楽園を含む一帯は常磐公園と呼ばれ、代表寮歌「時乾坤」(大正9年制作)に「水府城頭名に高き 常磐の園の草分けて」と謳われている。

向学立志像


平成元年に偕楽園内に設置された高ゲタ黒マントの水高生向学立志像。側面の由来銘板に「いま開校七十年祭に当り 水の徽章に白線二本の学帽とマント姿に象徴される水高生像を“向学立志”と名づけ 感謝と感慨を込めて母郷の若人に贈る。願くは われらを乗り越え限りなく前進せられんことを」とある。右手にはコンサイスの辞書と文科・理科を象徴する2冊の本を抱えている。

水高の森


開校50周年を記念して昭和44年に千波湖南岸の一角に「水高の森」が寄贈された。記念碑に「水戸 われら青春の母郷へ 感謝のこころをこめて この森を贈る」とある。

水高梅林


開校70周年を記念して平成元年に偕楽園南西の窈窕梅林内に寄贈された「水高梅林」。記念碑背面の由来文に「われらが青春の母郷水戸へ 感謝をこめてこの梅林を贈る」とある。

おまけ


昭和55年に市内大町地区に開館した市立博物館と市立中央図書館。両館内に水高関連資料が常設展示されている。



千波湖南岸より偕楽園方向を望む。千波湖は江戸初期の水戸城築城に際し天然の堀として利用された。大正時代には現在の約3倍の面積だったが、干拓が進められて縮小した。代表寮歌「夕べの丘に」(昭和7年制作)の冒頭に「夕べの丘に来て立てば 千波の湖の霧白く」と謳われている。


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