旧制新潟高等学校
現況
現在の新潟大附属校正門。旧制新潟高等学校後身の新制新潟大学人文学部・理学部は暫くこの地に在ったが、昭和43年から45年にかけて市内五十嵐地区に統合移転した。跡地には平成4年に附属小が、平成6年に附属中が各々移転し現在に至る。校章は雪の結晶の六花を図案化したもので、寄宿舎は六花寮と命名され、同窓会も六花会と称している。代表寮歌「越路の春」(昭和14年制作)に「真理の道を求め行く 潔き六花の子等ぞ住む」と謳われている。
新高記念碑
創立60周年を記念して昭和54年に建てられた新高跡碑。「生誕ここに一年と」に始まる代表寮歌「頌春の歌」(大正9年制作)の1番の歌詞が刻まれている。
寮歌碑
創立50周年を記念して昭和44年に新高付近の松林に建てられた、「頌春の歌」の記念歌碑。背面の由来銘板に「『頌春の歌』は 健児青春の賛歌 朝夕もっとも愛唱せるもの 創設五十周年の佳日 その一節を刻し 此の丘上に悠久の麗日を記念す」(原文は片仮名)とある。
八田校長像
昭和8年に建てられた八田三喜初代校長胸像。旧制東京府立三中(現在の都立両国高校)校長から抜擢され、「自由・進取・信愛」をモットーに13年間に亘り校長を務めた。建立時の胸像は昭和19年に戦時供出され、昭和24年に再制作された。
背面の由来銘板。新潟大の移転に伴い昭和46年に寮歌碑の隣に移設された。側面の移転由来銘板に「よって我等相議り 先生の胸像を旧校庭を俯瞰し得る此の丘上に移築し 以て先生の高風を永く伝へんとす」(原文は片仮名)とある。
六花寮記念碑
平成19年に新潟大旧六花寮生親睦会有志により建てられた、代表寮歌「友よ語らん」(大正15年制作)の記念歌碑。「こゝに新潟大学六花寮ありき」と刻まれている。六花寮は昭和40年に市内関屋地区に移転後、平成23年に五十嵐キャンパス内に再移転して現在に至る。
寮母墓碑
昭和33年に六花会有志により市営日和山墓地に建てられた、北條みちの刀自の墓碑。由来文に「昭和11年9月旧制官立新潟高等学校六花寮清和寮寮母トナル 昭和31年11月職ヲ退ク 昭和32年7月6日東京ニテ病歿」とあり、八田元校長の追悼歌「もゝちゝの わかうどたちに したしまれ おいもわすれて ゆきしきみかな」が刻まれている。
どっぺり坂
六花寮から繁華街の古町へ通う近道だったどっぺり坂。由来陶板に「かつてこの坂の上には、旧制新潟高等学校やその後の新潟大学がありました。(中略)あまり坂を往来し、遊びの度が過ぎると落第するぞという戒めの意から、ドイツ語のドッペルン(二重にするという意)と洒落て『ドッペリ坂』と名づけられました。ちなみにこの坂の階段は、及第点の60点に1つ足りない59段でつくられています」とある。
どっぺり坂の上から古町方向を望む。なお現在の坂は昭和62年に改築・整備されたもの。
由来陶板に描かれている新高本館の図。
おまけ
昭和4年に建てられた旧制新潟師範学校記念館。平成13年に新潟大旭町学術資料展示室として新装開館し、新高で使用された心理学・物理学実験器具等の資料を展示している。
新高から徒歩圏内にある日本海岸より沖合に佐渡を望む。代表寮歌「佐渡が島山」(昭和4年制作)に「佐渡が島山黄昏れて 彩雲なびく空の色」と謳われ、「頌春の歌」には「ふりさけ見れば紫の 一抹佐渡が島かすみ」と謳われている。
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