旧制浪速高等学校
現況
現在の大阪大学豊中キャンパス石橋門と背後の旧イ号館。大正8年に阪急電鉄より旧制大阪府立医大(大阪帝大医学部の前身)に待兼山一帯の土地が寄付され、予科が大阪市内から当地に移転した。その後予科は発展的に廃止され、大阪府立7年制(尋常科4年+高等科3年)の旧制浪速高等学校が新規に設置された。戦後の学制改革に伴い浪高は新制大阪大学教養部北校となったが、一部の教官と所蔵図書の大部分は新制浪速大学(新制大阪府立大学の前身)に移された。
現在の豊中キャンパス案内図。浪高の本来の敷地は現キャンパスの北西側(図の右上側)で、旧正門は現在の石橋門の位置に在った。代名詞として待兼山に由来する「待陵」が用いられた。
旧イ号館
昭和3年に浪高本館として建てられた旧イ号館。戦時中は扶桑金属工業(現在の住友金属工業)の軍需工場となり、屋上には高射砲が設置された。現存する阪大最古の建物。教養部本館、全学共通教育機構本館を経て平成23年より大阪大学会館として使用されている。
平成16年に文化庁の有形文化財建造物として登録された。
旧イ号館の傍らに建つ木造のポンプ施設。
ステンドグラス
大学教育実践センター実験棟IIの入口に掲げられている、浪高尋常科玄関を飾ったステンドグラス。由来銘板に「旧制浪速高等学校は昭和25年大阪大学に編入され、同校尋常科の建物は大阪大学旧教養部物理棟として昭和末期まで使用されました。その間、この建物で幾多の輝かしい仕事がなされ、世界一の分界能を誇る質量分析装置も完成されています」とある。
知静堂
昭和10年に浪高弓道場として建てられ、現在も阪大弓道部の部活動に使用されている。
柱列
浪高旧敷地の境界を示すコンクリート柱列。かつては柱列間に鎖が渡されていた。
有備館表札
昭和7年に浪高武道場として有備館が建てられ、昭和42年の解体後も表札が残されて現在第一体育館入口に掲げられている。
水練場跡
構内の「叫びが池」の北側を区切り浪高水練場として用いた。
浪高庭園
創立50周年を記念して昭和50年に構内に設置された浪高庭園。
開園時に設置された記念碑に「創立五拾周年記念園 創立 大正15年 1925 築庭 昭和50年 1975」とある。
平成13年に設置された園名碑。背面の由来文に「ここ待兼山に青春を謳歌し知・徳・体を錬磨した旧制浪速高等学校師友四千名の想いをこめ母校創立75周年記念植樹の佳き日にこの碑を建てる」とある。
歌碑
創立35周年を記念して昭和35年に建てられた、代表歌「浪速の友に」(昭和4年制作)の記念歌碑。「麦生の床に百鳥の」に始まる1番の歌詞が刻まれている。元々はイ号館玄関前に建てられたが、後に浪高庭園内に移設された。
記念像
創立85周年を記念して平成22年に建てられた、高ゲタ黒マントの浪高生記念像。台座に「浪速の友に」の一節「友よ我らぞ光よと」が刻まれ、由来銘板に「ここ待兼山には かつて日本の発展に大きく貢献した多くの俊秀が集い その青春の日々を送った浪速高等学校がありました (中略)マントをひるがえし 朴歯の下駄を高鳴らせて闊歩する姿は 市民からも敬愛されていました」とある。
花時計
昭和60年に大阪府庁前に設置された花時計。右奥の由来碑に「昭和二十五年学制改革のため閉校となった母校をしのび 大阪府への謝意をこめて創立六十年にあたりこの花時計を贈る」と記されている。
おまけ
昭和7年に待兼山の西麓に建てられた旧大阪帝大附属病院石橋分院本館。現在は阪大総合学術博物館・待兼山修学館に改装され、旧制浪高生の着用した制帽やマント等が一般公開されている。
最寄駅の阪急電鉄石橋駅。明治43年に箕面有馬電気軌道の宝塚線と箕面線が開業した際、両線の分岐駅として設置された。阪急最古の駅の1つ。箕面有馬電気軌道は大正7年に阪神急行電鉄、昭和18年に京阪神急行電鉄、昭和48年に阪急電鉄と順次社名を改称し現在に至る。
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