旧制第一高等学校向ヶ丘校舎
現況
現在の東京大学本郷キャンパス弥生地区(農学部)正門。旧制第一高等学校の正門も同じ位置に在った。明治7年に神田一ツ橋に東京英語学校が設置され、明治10年に東京大学予備門、明治19年に第一高等中学校となった。明治22年に当地に移転し、明治27年の高等学校令公布に伴い第一高等学校と改称された。一高は昭和10年に東京帝大農学部と敷地交換して駒場に移転するまで46年間この地に存在した。
正門の由来板に「農正門は、1935年に農学部が駒場から第一高等学校跡に移転した後、1937年に創建された」とある。一高寮内規約(大正12年改正)に「第九條 寮生ハ必ズ左ノ約束ヲ履行スベキモノトス」「第十四項 正門以外ヨリ出入スベカラザルコト」とあり、「正門主義」を堅持した。
弥生地区(写真左手)と本郷地区(写真右手)を隔てる言問通り。両地区は昭和39年に架けられた歩道橋で結ばれており、往来可能である。
現在の弥生地区案内図。言問通りを隔てて右側は本郷地区。今は東大球場になっている領域とその西側(写真では下側)に8棟の寄宿舎が建ち並んでいた。第一高等学校ホームページの「歴史写真館」→「第一高等学校時代(大正期)」にある「一高平面図」と比較対照されたい。
向陵碑
駒場移転に際して名残を留めるべく昭和10年に建立された向陵碑。揮毫は菅虎雄独文学教授による。一高は地名の向ヶ丘に因んで「向陵」と称され、代名詞に用いられた。代表寮歌「藝文の花咲きみだれ」(明治43年制作)に「京に出でゝ向陵に 学ぶもうれし武蔵野の」と謳われている。
向陵碑背面の漢文を書き下した銘板。「数年前、当局に我が高校と駒場農科大学と、其の地を相ひ易へんとするの議有りて、已に緒に就く。今茲に八月、我が輩将に向陵と永訣せんとす。嗟夫向陵よ、汝の精神は長へに我が高校とともに相ひ終へん」とある。
農学部1号館
昭和5年に建てられた農学部1号館。「第一高等學校六十年史」(昭和14年刊行)に「昭和五年四月 理科第三學年五組の教室を構内に建築中の東京帝國大學附属建物へ移す」「昭和五年七月 第一校舎の教室校長室及各事務室を構内に築造せられたる東京帝國大學附属建物中に移す」とある。
朱舜水記念碑
明治45年に一高構内に建立された、「朱舜水先生終焉之地」記念碑。揮毫は新渡戸稲造第9代校長による。芥川龍之介の小説「歯車」の一節に「そのうちにふと出合ったのは高等学校以来の旧友だった。(中略)『久しぶりだなあ。朱舜水の建碑式以来だらう』彼は葉巻に火をつけた後、大理石のテエブル越しにかう僕に話しかけた。『さうだ。あのシュシュン・・・』僕はなぜか朱舜水と云ふ言葉を正確に発音出来なかった」とある。
平成24年に都教委により建てられた由来銘板。「この記念碑は、日本渡来二五〇年祭にあたり水戸藩邸内に朱舜水記念会が建てたものですが、農学部内で移転をしています。そのため、現在記念碑が設置されている農学部正門附近は水戸藩邸の区域ではありません」と記されている。
S坂
弥生地区裏手の地下鉄千代田線根津駅方面に向かう坂。森鴎外の小説「青年」に「右は高等学校の外囲」で「割合に幅の広い此坂はSの字をぞんざいに書いたやうに屈曲してついてゐる」とある。写真右手は東大弥生地区の外塀で、左手は根津神社。
根津神社門前の由来銘板。「旧制第一高等学校の生徒たちが、この小説『青年』を読み、好んでこの坂をS坂と呼んだ」とある。
おまけ
文政11年(1828年)に徳川斉昭公により建てられ、平成20年に東大浅野地区に移設された「向岡記」碑。由来板に「寛永寺の寺領『忍岡』の向かいの『向岡』に位置した水戸藩中屋敷に建立された。(中略)『向岡』の由来を碑に記し、文末に『名にし負ふ 春に向ひが岡なれば 世に類無き 華の影哉』と詠んでいる」とある。
明治5年から昭和40年までの旧町名である「向ヶ岡弥生町」の由来板。「町名は、水戸家9代斉昭が屋敷内に建てた歌碑からとられた」とある。代表寮歌「嗚呼玉杯に花うけて」(明治35年制作)の一節に「向ヶ丘にそそり立つ 五寮の健児意気高し」と謳われている。
正門を入ってすぐ正面にある椎の巨木。前述の「一高平面図」にも本館前にロータリーのような円が描かれている事と樹勢の規模より判断して旧制時代から植えられているものと推測されるが、詳細は不明である。
旧制第一高等学校駒場校舎
旧制一高
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