旧制第二高等学校三神峯校舎
現況
現在の三神峯公園南西入口。旧制二高は昭和20年に戦災に遭って北六番丁校舎が全焼し、戦後に旧仙台陸軍幼年学校跡に移転した。昭和25年に閉校になるまでを「三神峯時代」と呼ぶ。二高後身の新制東北大学教養部は暫くこの地に在ったが、昭和33年に市内川内地区に統合移転した。なおこの正門柱は仙幼当時の遺構。
東北大跡地は整備され、昭和42年に三神峯公園が開園した。
記念碑
創立100周年を記念して昭和61年に建てられた二高尚志の碑。「大いなる 涅槃の如く 二高逝く 友よ尚志の 契り守らむ」と刻まれ、背面の由来文に「この終焉の地に尚志の精神を永く伝えるべく第十代野口明校長の歌を刻み青春の想いを桜花に託し 懐古の情を松風に寄せて吾等二高の挽歌とする」と記されている。
平成元年に建てられた三神峯明善寮懐旧の碑。代表寮歌「散りにし花は」(昭和15年制作)の冒頭の一節が刻まれ、背面の由来文に「東北大学三神峯明善寮は、一九四九年五月旧制第二高等学校明善寮の後身として発足した。(中略)木造二階建の寮舎及び食堂の二棟よりなり、百六十余名収容の自治寮であった」と記されている。
芳流碑
昭和31年に瀧澤寺本堂前に建てられた芳流碑。長町南で大衆食堂を営んでいた洞口せい刀自は物心両面で二高生を支え続けたが、昭和31年に急逝した。背面の由来文に「敗戦の傷痕深く混迷甚だしかった二時代、故人はわれわれを愛児のごとく遇した 故人のきびしい生活態度と豊かな愛情とは、若く貧しいわれわれに深い感銘と力とを与えた 『大衆のおばんちゃん』と呼んで、われわれは慈母のように故人を慕った」とある。
時計台
平成30年に東北大川内キャンパスに建てられた時計台。背面の銘板に「寄贈 第二高等学校 尚志同窓会」とある。
おまけ
仙台城(青葉城)本丸跡より広瀬川と仙台市街を望む。二高尚志会会歌(明治36年制作)に「青葉山萬古にしげく 広瀬川千歳清し」と謳われ、代表寮歌「山紫に水清き」(明治39年制作)には「流れてやまぬ広瀬川 朝な夕なの我が教」と謳われている。
旧制第二高等学校片平丁校舎
旧制第二高等学校北六番丁校舎
旧制二高
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